「ぼくらの戦争なんだぜ」

「戦争」考えるきっかけになれば

内容
文学を通して戦争とは何かを問う

感想
初めてこの作者の本を読んだが、言葉と文章と説明が丁寧で
読みやすく、”読者の理解してもらいたい”という
気持ちが読んでいて、よくわかる。
わからない気持ちももどかしい気持ちも説明しがたい気持ちも
丁寧に綴っていて、自分の気持ちを伝えるためには
これだけの言葉や表現で書かなければいけないんだと気付かされた。
知識や語彙力その他諸々、表面しか触れていないから、
私の書くものは深みがない。感情しか表にでていないのだからだと
思った。

”想像を絶するような光景を写した映像、たとえば、水俣病の患者たちの
様子を克明に写したドキュメンタリーを見るとき、たとえば、
原爆投下直後の広島の様子を撮影した写真を見るとき、ぼくたちは、
「かわいそうに」とか「無残だ」とか「残酷だ」といった感想を
持つよりも、どのように感じたらいいのかわからない、と思ったりするのでは
ないだろうか。
それは、ぼくたちが知っている「日常」のあり方は、遥かに異なっていて、
そのようなあり方を、どう理解すればいいのか、頭脳では理解しても、おそらく、
ぼくたちの感覚が理解することを拒むからだ。”
この文章を読んでまさに自分の日常にない人や映像を見るとどうすればいいのか
わからなくなる。例えば、障碍者で、お笑いをやっている人を見て
笑ってもいいのかそれとも笑っては不謹慎になるのか考えてしまう。
こういうことはみんなが感じている事なんだと思うと少し安心してしまう。

”韓国とニッポンの、ふたつの「国家」の歴史教科書を交互に読む。植民地に
された民族の、その宗主国のそれぞれの教科書を。”
戦争というのは自国と他国があることだとは考えてなかった。いまさらに
目からうろこだった。自国のことばかり敗戦国だから、原爆を落とされたからと
擁護の眼で見ていた。けれど、植民地にされた国の人々の眼には日本はどういうふうに
映っているのだろうか、何を感じたのだろうか。植民地にされた国に
ニッポンはどんなことをしたのかも調べもしなかった。
それすらもしていないのなら、まったく戦争をわかっていなかった。
このことだけを知っただけでも、この本を読んだ意味はあった。

古市憲寿さんの『誰も戦争を教えられない』にも書かれている。
その中で一番気になったことはこれだった。
”僕たちは、戦争を知らない。
そこから始めていくしかない。
背伸びして国防の意義を語るのでもなく、安直な想像力を働かせて
戦死者たちと自分を同一化するのでもなく、戦争を自分に都合よく
解釈し直すのでもない。
戦争を知らずに、平和な場所で生きてきた。
そのことをまず、気負わずに肯定してあげればいい。」

よく知らない「戦争」を根拠にするのではなく、よく知っている
「平和」を根拠にするべきではないか。古市さんは、そういうのである。”
「戦争」というものにこだわりすぎるあまり、自分に都合のように解釈したり
嫌のことを見ないようにし、被害者面をするのでもなく、「平和」という
ところからスタートする。
「戦争」という触れてはいけない出来事に、腫れ物を扱うように、
みんなと同じ考え方でしかいけないという思いがあったが、
この「平和」から考えるのはびっくりもしたし、妙に納得もした。

”あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ

明治末から大正にかけて、啄木の友人として、戦争に反対し、朝鮮併合に
反対した歌人土岐義麿は、やがて新聞人として、昭和に入ってから戦争に
肩入れした演説を表舞台で国民に向かってくりかえした。そのあいだ家にあって、
台所で料理をととのえていた妻は、乏しい材料から別の現状認識を保ちつづけた。
思想のこのちがいを、正直に見据えて、敗戦後の歌人として一歩をふみだした
土岐義麿は立派である。”
土岐義麿も奥さんも凄い人だと思って。口に出しては言えないことを言った
奥さんもそれを歌にした土岐義麿も。この歌だけでその場の空気も風景も
浮かんでくる。それが何とも言えない気持ちになる。

「戦争」という出来事の考え方が今までとは少し考え方が違ってきた。
今までは絶対に戦争はしてはいけないというだけしか考えていなかった。
それは変わりはないが、植民地にされた国、「平和」というところから考える、
多面的に「戦争」とは何かを考えるきっかけになった。

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