基督教を禁止する日本に布教とフェレイラ神父を探す目的で日本へ行き
セバスチャン・ロドリゴによって書簡で書き綴られたものである。
私は一般的な日本人で宗教で区別するならば仏教だが、観光には
お寺にも神社にも教会にも初詣にも行くし、クリスマスにはケーキを食べる。
近しい人が亡くなれば葬式にだって行く。それでも熱心にお経を読んだり、教会へミサに行ったりはしない。ましてや生活のすべてを変えてしまうような熱心な宗教的儀式も
したことがない。たまの困ったときの神頼みをするときもあるがそれもおまじない程度だと思っている。
その程度の私が基督を布教するために何日も船に乗って、本当に着くと
わからない異国へ風、嵐の中で行くのは考えられない。
ましてや日本に着いたところで基督弾圧が広まり、見つかれば拷問され、
棄教させられることが分かっているのに、信徒がいるだけで
”私が行かなければ”と思うものだろうか。
信仰心のない私にはどうしても理解ができない。そこまで基督のために信仰のために
行動できるのだろうか。
切支丹弾圧のためとはいえ奉行が信者を水磔させたり、吊り穴で逆さ吊りにしたりするのを司祭に見せつけ棄教させるのは心が痛かった。いくら理由があるとはいえ、同じ人間が
することではない。
この時代なら基督教の教えや反乱などその他いろいろ懸念することあるとは思うが
そこまでやらなければならないのかと思う。
宗教というとオウム真理教などで新興宗教のイメージがあり、どうしても
悪いものや怪しげなものと捉えていた。
でもこの本を読んで悪いものや怪しげなもののイメージではなく、内側から見た
苦悩するところや基督を信じきれない葛藤が書かれ、ただ外側が基督に入っていると
だけで中身は同じ人間だと痛感した。
最後にロドリゴは表面上は棄教されたと描かれているが、私はロドリゴが
棄教したとはどうしても思えない。ロドリゴはずっと基督の司祭なのだ。
基督もロドリゴを棄てていないだろう。