「私とは何か 「個人」から「分人」へ」

自分の中には色々な顔がある

内容
分人とは一個人が対人関係ごとに見せる複数の顔

感想
この考えを初めて知ったのは新聞で著者とどこかのお坊さん?が対談を
しているのが載っていたのを読んだ時だ。その時はこういう考え方も
あるのだなと思った。いじめの事に関して分人を通して考えてみると
いじめでの対人関係に悩みは対しては、自分自身を失くしてしまうのは
(自殺する)勿体ない。いじめの対人関係以外の分人での楽しいことに
比重を置くことで気持ちも楽になるのではないかという内容だったような気がする。
(時間が立ってしまったのであまり覚えてないが)

”第4章 愛すること・死ぬこと”の中の”死後も生き続けられる分人”で
もし自分が死んでも”あなたの存在は、他者の分人を通じて、あなたの死後も
この世界に残り続ける。”が印象に残った。
”あなたが故人と長年親しくしていたなら、あなたの中には、彼との分人がまだ
消滅しきれずに存在している。その分人が感じ、考えることは、必然的に故人の
影響を被っている。故人の口癖や考え方がうつっている。つまり、あなたの語る
言葉は、半分は自身のものでありながら、やはり半分は故人のものなのだ。”
この考え方にすごく共感する。ただ、時間が経つとその故人との分人はいつかは
消滅してしまうのだろう。それでも少しの間故人がいなくなっても気持ちは
まぎれるのかもしれない。

今までは私と他者とそれ以外のものはないと思っていた。自分の中に色々な顔があるのは
なんとなくわかっていたが、まさか(造語でも)分人という名がついた具体的なものが
記してあることにびっくりした。目から鱗だった。この考え方があれば、少しは
対人関係で辛いことや苦しいことがあっても、言い方は悪いが、何かつらいことがあっても逃げ道があるのではないかと思った。一個人(自分自身)が何もかも一人で背負わないで、分人という概念があれば考え方も変わるのではないかと思ってくる。

”私は森鴎外が大好きだが、彼は「仕事」を必ず、「為事」と書く。「仕える事」
ではなく、「為る事」と書くのである。私はこの発想を気に入っていた。人間は、
一生の間に様々な「事を為る」。寝て起きて、食事を摂って、本を読んだり、
映画を見たり、デートをしたり「為る」。職業というのは、何であれ、その色々な
「為る事」の一つに過ぎない。”
このこともなるほどと思った。今は仕事はしてないが、仕えると思って
仕事をしたことはあまりない。この仕えるというのはどういうところから
出ているのだろうと思った。会社からか国からか。いつの時代からこの漢字に
なったのだろう。今からでも「仕事」を「為事」に漢字を変えるべきだろうか。

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