わかったつもりでもわかってはいなかった
内容
平凡な家庭の沢野良介は何者かに殺されてしまう。良介の兄の崇は
最後に良介と会っていた。会っていた時、口論していたことや家族の関係から
警察は崇を容疑者として見ている。しかし、、、。
感想
子供の時は崇のように色々考えていた。(崇のように賢くないが)今はあまり
考えることをしなくなったなと読み終えてからそう思った。
わからないことや知らないことに一人悶々と考えていたことがよくあったが
大人になった今、わからないことがわかったようなつもりになって自分の中で
処理をしたのか、もしくはわからないことでもそれほど興味をなく、
知ることが面倒になったのかわからないが子供の時のように本当に
考えることが少なくなった。
正直崇は”めんどくさい人”の印象が強い。多分考えすぎるからだと思う。
それを口にして崇は他の人に理解してもらおうとするが結局
他の人が全部理解するのは難しいと感じた。崇が言いたいことは丁寧にわかってもらおうと
していたが、他の人からするとそんな回りくどい考え方や言い方をしなくても
なぜ直接的に言えないのかと感じることが多いのではないのだろうか。
崇の内面の感情を読んでいて、そう思うことが多かった。
でも多分だけれど、崇は頭が良い人だからそういう話を通じる人と通じない人を
区別している。女性関係でそういう難しいことをいう場面があまりなかったような
気がする。女性蔑視ではないが崇はそういう関係を拗らせたくなかっただけだとは
思うが。崇のめんどくさい内心は弟の良介や室田だけ、わかるひとにだけ話していたように思える。
”篠原は、”病気”であったから罪を犯したのではない。罪によって”病気”であるとされているに過ぎないのだ。”
私は今まで犯罪が起こったのは、発達障害や環境や境遇があったから、だから犯罪が
起こったと思っていた。でも、発達障害や環境や境遇がひどくても犯罪に走らない人は
いる。犯罪を犯したからそういうふうにみんなを納得されるために病気や環境のせいに
してしまっているのかもしれない。他の人を納得させるために何らかの理由がいる。
わからないは人を不安にさせるからだ。それでも本当は犯罪の起こした人のことを
すべて理解するのは無理だ。だからわかったようなつもりでいるのしかない。
「死刑について」を読んだ後に「決壊」を読んで作者がどういう気持ちで冤罪の話を出してきたかやなど背景がわかって読んでいて納得するところが多かった。
残虐な場面では作者もこういうことを考えてるのかと思うと怖くなった。(小説の中だけなのだろうが)それと同時に小説家も自分の内面(考えていること)を書くということは
自分を全てではないがさらけ出しているような気がする。
私自身もブログを書くようになって(小説家の足元にも及ばないが)文章を書くということは自分の内面を他の人にさらけ出している。自分のことをまったく知らないひとに
自分の気持ちをさらけ出すということは正直いうとすごく恥ずかしいし、
こういうことを家族や友人でさえあまり言ったことはない。
言葉で話すと内容がまとまらないし、自分でも何を言っているのかわからなくなる。
だからこういうふうにブログに書くほうが私には合っていると思う。
だが私は文章も書くもの下手だから、他の人に自分の思いが全て伝わっているのか
わからない。